桐木神楽堂について
What's KIRIKIKAGURADO
History
桐木神楽堂のあゆみ
昭和2年、桐木仁一郎が宮崎で椿油の行商として「桐木商店」を創業。長男・勇が家業を継ぎ、化粧品販売を経て、煎餅作りに転身。「宮崎八景せんべい」や「日向古代煎餅」が好評を博しました。三代目・孝一郎は和菓子の道へ進み、「恵比寿大福」で人気を得ます。煎餅づくりは平成16年に幕を閉じましたが、地元に根ざした和菓子作りは今も続いています。
創業者について
桐木仁一郎は1896年に宮崎県日之影町に生まれる。志をもって宮崎市移住、椿油の行商を始める。1925年には現在の地に桐木商店を開店。主に生活雑貨の小売りとともに地方の商店に雑貨類を配達する仲卸を行っていた。仕事の苦労に合わせ前妻、次妻(二代目勇の母)にも先立たれる。その頃縁あって道徳の勉強会であるモラロジーと出会う。その後、モラロジーは仁一郎の生涯の礎となる。先祖を敬い感謝する、子孫の為に徳を積む、町のため人のため、と多忙な中にも自己研鑽を惜しまず地元のお寺や神社に足を運び援助を惜しまなかった。3人の子にも恵まれ桐木商店は小さいながらも従業員を住み込みで雇い戦中、戦後を何とか生き延びていった。
ニ代目について
桐木勇は1928年に生まれる。母は5歳の時病死する。宮崎商業学校に進学し農協に勤務するが幼い弟妹を抱え町内会やモラロジー活動で多忙な父のことを思い家業に従事する。1954年美代子と結婚。宮崎にも県外の大型商業施設が次々と出店する時代となり意を決して商売を転向する。1963年観光土産煎餅の製造卸「桐木かぐら堂」を始める。当時新婚旅行ブームとなった宮崎には多くの旅館、ホテル、お土産屋が立ち並び勇は製造から遠くの観光地に配達の毎日。その後、店舗も構え「宮崎八景せんべい」「日向古代煎餅」ともに宮崎のお土産として40年もの間、空港、官公庁など多くのお客様に愛されることとなる。
三代目について
桐木孝一郎は1958年勇と美代子の長男として生まれる。女三人の中で育ち気弱だったこともあり孝一郎は伯父の勧めで幼少より柔道を始める。その後柔道は大学まで続けることとなり厳しい修業時代を支える一端となった。柔道で宮崎商業高校、愛知学院大学へと進学し一時は公務員(刑務官)を考えたが母の勧めもあって東京製菓学校和菓子科に入学する。その後東京西荻窪「杉森」千駄ヶ谷「菊屋」にて修業を積み帰郷。1986年11月1日和菓子店「桐木神楽堂」を開店する。当時だんご1個60円~80円の時代、日持ちのしないの大福を130円で販売、しかも化粧箱に風呂敷包みの包装は良しも悪しきも評判となった。現在の看板商品「恵比寿大福」の誕生である。宮崎に少なかった和菓子屋として茶道家にも用達され2000年九州サミット外相会議では各国外相の茶道体験の菓子として採用される。また2015年より3年間JR九州クルーズトレインななつ星に和菓子を提供する。1998年法人化により代表取締役就任。また桐木神楽堂は2006年父、勇の死去によりせんべいの製造を中止し和菓子専門店となる。
四代目について
桐木太輔は1992年、3代目孝一郎と純子の長男として生まれる。
幼少期から活発な性格で、小学校から高校までゴールキーパーとしてサッカーに打ち込む。宮崎日本大学高等学校卒業後、日本大学商学部に進学。上京してDJ活動に挑戦した経験を経て、家業を継ぐ決意を固める。日本菓子専門学校を修了後、茗荷谷「一幸庵」、上野「うさぎや」で修業を重ね、2020年に帰郷。現在は工場長として、伝統を守りながらも、新しい和菓子の可能性に挑戦し続けている。将来の目標は、食に恵まれた宮崎の土地から生まれる和菓子を世界に広めること。日々、一つひとつのお菓子に心を込めて、お客様に喜んでいただける和菓子づくりを行っている。
Message
そして、これからも
平成16年、勇の死去により煎餅づくりは幕を閉じましたが、和菓子への情熱は引き継がれています。
地元に根ざした和菓子店として、変わりゆくまちと共に、桐木神楽堂は今日も橘通で暖簾を掲げ続けます。
創業から90余年。私たちはこれからも「この土地に生きる菓子づくり」を大切に歩んでまいります。