知るほど食べたくなる! 和菓子は2000年の時をかけて作られた芸術

知るほど食べたくなる! 和菓子は2000年の時をかけて作られた芸術

 

大福やまんじゅうなどをはじめとした和菓子は、現代でも多くの人に親しまれています。このコラムでは、和菓子がどのように愛されて発展してきたのかを紹介していきます。和菓子のさまざまな歴史を知り、奥深さを感じながら和菓子を楽しんでみてください。

「菓子」の原点は果物や木の実だった

お菓子などの甘味の原点は、天然の甘さを持っている果物や木の実でした。

古代から人間は果物を食べており、加工食品が登場する以前の食が十分でなかった時代には、果物や木の実の甘みは特別なものとされていました。

日本人は昔から餅や飴を食べていた!

餅は1700年も前から食べられている!

日本の甘味といえば「団子」や「餅(もち)」が代表的ですが、餅は弥生時代からあったのではないかと予想されています。弥生時代は紀元前300年ころから、紀元300年ころまでの期間であり、甘味、菓子というカテゴリーだけでなく、加工食品として初めて作られたのも餅だったと考えられています。

また、砂糖を日本に伝えたのは遣唐使といわれています。遣唐使が開始されたのは630年ですから、日本に砂糖が伝わったのはそれ以降だと考えられていますが、はっきりとは分かっていません。日本の文献に砂糖が登場するもので現在最も古いのは、「種々薬帖」の中の「蔗糖二斤一二両三分并椀」(825年)です。

現代では、身近な調味料として使われている砂糖ですが、当時はとても貴重なものだったのです。

さまざまな甘味の誕生

「日本書紀」(720年完成)には米を発芽させた「米もやし」のデンプンから作られた「飴」が紹介されています。また、「枕草子」(1001年頃完成)には、「甘葛(あまづら)」と呼ばれるツタの汁から作ったシロップのようなものが書かれています。

そのほかにも枕草子には現代でいう「のし餅」に近いと思われる「ひろき餅」、野菜や卵を餅でくるんだ「餅餤(へいだん)」、麦を煎って(いって)挽いたものを糸状に練った「青ざし」などさまざまな菓子が登場しています。

女性知識人である清少納言が当時の女子が好んだスイーツを紹介している、と考えればかなり現代の「デザート」に近い位置付けのものが複数あったことが伺えます。

遣唐使が持ち帰った唐菓子

遣唐使が持ち帰ったものの中に、「唐菓子(からくだもの、またはからがし)」と呼ばれるものもあり、和菓子に大きな影響を与えたと考えられています。

唐菓子は、大豆や米など粉状にしたものをこねて丸めたり伸ばしたりして、さまざまな形状を作り、味付けは、蜜、あまづら、水あめなどの甘いものや、塩味のものがあり、油で揚げたものもありました。祭神に重用され、現在でも春日大社や熱田神宮では神への供物として使われています。

文化の発展とともに和菓子は成長した

お茶の伝来

お茶そのものは奈良時代に遣隋使によって伝えられていました。さらに鎌倉時代の前半(1190年代)に栄西禅師という人が茶の苗を大陸から持ち帰ったことで栽培が普及します。それ以後「喫茶」、「茶の湯」の文化が発展、流行していきます。

点心の席で出されたものの中には「羹(あつもの)」と呼ばれる汁状のものがありました。魚やいも、鶏肉などを入れたものなど48種類もあったとされています。

その中のひとつに本来は羊の肉を入れる「羊羹(ようかん)」が存在します。しかし、当時の日本では鶏は食べていても4足動物を食べる習慣がほとんどありません。そのため、麦や小豆の粉などで羊肉に近いとされるものを作って汁に入れており、やがて汁を使わないものが「羊羹」と呼ばれるようになりました。

時代とともに甘みを足され、寒天を使ってかためるなどの変化を遂げ、江戸時代の後半には(1800年頃)現代の羊羹に近いものが作られるようになりました。

茶道の発展

室町時代には既に「茶席」があり、食事とは別の時間に「点心(てんじん)」が楽しまれています。室町時代といえば、織田信長や豊臣秀吉が茶器などを大切にしていたこと、千利休などの茶人が活躍したことも広く知られています。

また、茶の湯の席で出されるものも、栗の粉餅、フノヤキ(水溶き小麦粉を薄く焼いて味噌を塗って丸めたもの。山椒味噌、ケシ、砂糖などを入れる場合もあった)、煎餅、焼栗などもありました。利休の茶会ではこれらの菓子が何十種類も記録に残っており、一回の茶会で3、4種類の菓子が出ていたようです。時の権力者が茶会を楽しんだとなれば、菓子作りが洗練されていったこともうなずけます。

南蛮菓子の影響

室町時代にはポルトガル船が種子島に来たことで(1500年代中期)鉄砲などが伝来していますが、この時伝えられた菓子類が現代のカステラ、ビスケット、金平糖、ボーロなどにつながっています。

ポルトガル人からは白砂糖ももたらされており、和菓子の味、製法は大きく変わっていきます。やがて砂糖そのものが日本でも製造されるようにもなると徐々に町人階級にも伝わり、日本独自の菓子文化が発展していきます。

和菓子が開花・普及した江戸時代

江戸時代に入って戦乱が静まると、武家にも町人にもさまざまな文化が生まれていきます。文化の中心となっていく江戸での発展や、古くからの文化がある京都周辺で独自に発展したものが交流することでも重層的な変化が起こります。そしてこの頃には現代の和菓子の基礎ができています。

まとめ

和菓子の発展の歴史

 

和菓子の発展の歴史をまとめました。和菓子の発展には海外からの影響が大きいことが分かりますが、その素晴らしさは、海外のものをそのまままねをするのではなく、独自のものとして研究・開発を続けたことにあります。

宮崎県にある「桐木神楽堂」では、たくさんの種類の和菓子作りを行っています。当店名物の大福や最中(もなか)やきんつば、栗饅頭、あやめやカーネーションなど季節の花をかたどった和菓子なども取り扱っています。

今日もおいしい和菓子を、店舗で購入していただくだけでなく、通信販売にて全国に提供していますので、ぜひご利用ください。